主体的であるということ

社会通念や世論、周りの人たちに触れるにおいて、自分が嫌悪や不快感を感じるのだとすると、それは自分自身が顕在的にも潜在的にもそのような側面を持っているということである。

他者は自分の鏡であり、自分というフィルターを通してみてしまうのだ。自分は今、関心事や弱さを持っていて、そのフィルターを通して相手を見ている。つまりは自分自身を相手に投影しているということだ。

 

現代には3つの社会的な決定論が広く受け入れられているらしい。

 

1つ目の地図は、遺伝子的決定論である。

たとえば、「あなたがすぐに怒るのはおじいさん譲りだ」というように、遺伝レベルで決まっているというものだ。

 

2つ目は心理的決定論である。

「あなたが、だらしないのは親の育て方が悪いせいだ」というように、自分が幼少期に体験してきた事柄が自分自身を作っているというものだ。

あなたが小さいころに物を出しっぱなし、使いっぱなし、ドアを開けっぱなし、服を脱ぎっぱなしにしていた環境において、親が何も言わずあなたの失敗や不始末の後始末をしてくれて、あなたは親に依存していたという体験があなたの価値観や思考を作っているということである。

 

3つ目は環境的決定論である。

会社のせい、職場の上司のせい、配偶者のせい、国のせい、首相のせい、とあなたを取り巻く環境における何かや誰かがあなたの今の状況を作っているということである。

 

私はこれらの要因が性格や思考に影響を与えることは受け入れられるが、これらの要因において性格や思考が決定づけられているとは思わない。

 

生まれ育った環境や今の環境において、何か問題が起きていたとしても、それをどのように受け取り捉えるか、どのように自分に影響するかを自分自身が選択できるのである。

天気が悪いと気分をふさぎ込んでしまうのか、それとも雨が降ろうが関係なく自分の価値観に基づいて行動するのか。

 

起きた現象をどのように捉え、どのように受け取り行動するのかは、自分がどのような価値観をもとに行動するのかにより大きく変わるということである。

そして、それは自身が影響を与えられる範囲とも大きく関係しているようだ。

 

影響の範囲については次回まとめる。